ハワイアンジュエリーの歴史 | PUA ALLY(プアアリ)東京都・渋谷区

分厚い本が開かれている

1.私とハワイの出会い。

 
私がハワイに惹かれたのは、とても単純で18歳の時に生まれて初めて飛行機にのり、生まれて初めての海外旅行先がたまたまハワイだった所から私とハワイの付き合いは始まりました。そこからもう30年が経ち私ももう48歳になりました。
 
初めて降り立ったハワイの地はカラッと空気が気持ちよく、英語も全くわからなかった私は本当にドキドキしながらハワイの旅をした事を今でもよく覚えています。あるレストランで自信満々にコーラを頼んだのに、ホットコーヒーが出てきた時は、こんなの頼んでいないよ!コーヒーじゃないよ!コーラに変えてよ!と言う事ができず、ハンバーガーをしぶしぶコーヒーで飲んだ事も今ではいい思い出です。
 
そして、ホテルから日本の彼女にバンバン電話してしまい、チェックアウトの時に請求された金額を持っておらず、同室の先輩にかなり高額なお金を払わせてしまった事も、大変申し訳ない思い出でした。確か・・・7万円ぐらいの電話代だったと思います。本当にすみませんでした。
 
そこから、どんどんハワイの魅力に惹かれて、何度も足を運ぶようになっていきました。どのくらい惹かれたかというと・・・。自分の結婚式も。妹の結婚式も。兄の結婚式もハワイで挙げるほど、家族みんなでハワイのとりこになっていったのです。自分で言うのも何ですが、本当に最高の結婚式を挙げる事ができました。
 
たくさんの友達が無理をしてハワイに来てくれました。(休みがとれず、会社を辞めてきた!なんて友人もいました。)お金がなかったので旅費をみんなに払う事はできなかったので、家族も親族も友達もみんな自費で来てくれました。本当に感謝しています。毎晩激しく飲み明かし、毎日みんなでハワイの大自然に飛び込んで行った事は私の人生の中でもとても大切な思い出です。
 
偶然から始まったハワイとの出会いですが。私がハワイアンジュエリーと本気で付き合う事になったのは私に最初の子供が生まれてくれた事ととても深い関係があるのです。これからみなさんに伝えたいハワイアンジュエリーの歴史は、未来の世界の形を少し説明してからにしたいと思います。

2.世界の人口推移を考える。

 
全然関係ない話かもしれませんが。私達がハワイアンジュエリーを作り続けている大切な理由がここにあるのです。
 
現在の世界の人口はなんと73億人にまで増えてしまっているそうです。
2050年には世界の人口はどんどん増え続け100億人を超えてしまうと予測されています。
こんなに人間が増えてしまうと何が起こるのかはまだ誰も経験をした事がないのであくまでも予想の範囲を超える事はできません。
少し別の視点から少し考えてみたいと思います。

ハンガーマップというのをご存知でしょうか。
国連のWFPという機関が、「世界の食料不安の現状2019」(国際連合食糧農業機関(FAO)、国際農業開発基金(IFAD)、国連WFP 発行)の統計に基づき作成したものです。
データを取る事ができていない地域もありますが、このデータでは世界の人口の35%がバランスの良い食事を取る事ができていないそうです。
 
ただ、先進諸国では大切な食べ物をたくさん廃棄してしまっているのも原状です。
単純に先進諸国が発展途上国に物資を送れば解決するのでは?と思ってもしまいますが。
電気が通っていない地域や冷蔵庫を買う事ができない国には新鮮な食材を届ける事も難しいのが原状なのです。

 
 
クリックで拡大

 
 

丸い地球の画像

たまたまお話を聞く事ができた株式会社ユーグレナの出雲さんと話をする機会があり、私自身は更に未来の地球の形を真剣に考えなくてはいけないと思いはじめました。
出雲さんいわく、今のままの地球では60億人をバランスよくお腹いっぱいにする事しかできていない。
 
10億人以上の人がバランスの良い食事を取ることができていない。
だから、ミドリムシを世界に広げていきたいと言っていました。(ミドリムシの詳細はインターネットで検索してください。)
出雲さんの話にはとても熱があり、世界の未来を真剣に考えている事が私にも伝わってきました。
 
地球の力は60億人を満足させる力しかない。という話です。
それなのに、世界は100億人に向かって増えていってしまうのです。
60億人を満足させる事しかできない地球に満足できない40億人が増えてしまったら・・・何が起こるかは最近の世界のニュースを考えてみると、少し想像ができるはずです。

3.資源や食料の奪い合いが始まる可能性が高まる?

  人が今より4割増えても地球は4割大きくならない。

尖閣諸島の問題。
竹島の問題。
ウクライナの問題。
南シナ海の問題。
イスラム国の問題。

海に浮かぶ尖閣諸島

これらの問題は、全て資源に大きく関わっています。もう既に奪い合いが始まってしまっているのかもしれません。私には今3人の子供がいます。8歳・2歳・3ヶ月です。30年後の世界で活躍をしている年齢です。
 
でも、この子供達の時代はたぶん今より苦しい時代なのかもしれません。このまま進んでいってしまう未来では40億人の人達が満足出来ていない可能性がある時代です。当然、今よりもっともっと奪い合いが起こる可能性があるのです。こんな時代にならないように私たちには何ができるのでしょうか。

助け合い、譲り合い、支えあう未来か、奪い合う未来か・・・
 
当然ですが、助け合い、譲り合い、支えあう未来を私は選択してほしいと思っています。世界中の人達がみんなそう思っているはずです。そしてもうひとつの大切な事があります。そう地球を大切に守っていかなくてはならない。という事です。
 
大切な自然や資源を守ってこそ、綺麗な空気や水や土があってこそ、人間を含めた様々な生き物が生きていく事ができるのです。自然に感謝をする気持ち。自然を大切にする気持ちをより多くの人々がもっともっと今よりも持たなくてはいけない未来が待っています。しかしながら、今よりも人がただただ増えてしまった場合、森を切り開き海の資源をとり尽くしてしまう可能性もあるのかもしれません。
 
そして私はハワイアンジュエリーを作るという仕事に本気で取り組む決意をしたのです。

4.インターネットに流れているハワイアンジュエリーの歴史とは。

 
今時の情報収集はインターネットで行う人が多いと思います。もちろん私もそんな一人です。ハワイアンジュエリーが作れるようになって、販売を考え始めたある日。私もハワイアンジュエリーの歴史を少し調べてみようと考えました。
 
すると多くのハワイアンジュエリーを販売しているサイトには同じ事が掲載されていたのです。

ハワイの歴史的建物のセピア写真

簡単に書くと、ハワイ王朝最後の王様であったリリウオカラニ女王が、イギリスに行き、ヴィクトリア女王がしていた、名前を彫ったバングル(腕輪)には亡くなったエドワード王子の名前が刻まれていて、彫り込まれた名前に黒のエナメルを流し込んで、故人を忘れないように大切に身に着けていたエリザベス女王に感銘を受けたリリウオカラニ女王がハワイに戻り同じようなものを作らせたのがハワイアンジュエリー始まりです。

大切な人を忘れないように身に着け続ける。とても良い事だと思います。
 
私はこのように書かれている事はみんなどこを見て書いているのだろう・・・。と考えて調べ始めました。実は、簡単に見つかりました。あるハワイアンジュエリーのブランドのサイトにそのまま書いてありました。
 
ちなみにこの事が記載されているのはたくさんハワイアンジュエリーブランド(ハワイを本拠地としているブランド)があるのに、1社だけがWebサイトに記載があるだけでした。なぜ他のブランドはその事を記載していないのだろう・・・。と不思議に思いました。そして、このハワイアンジュリーブランドは何を根拠にこの事を記載しているのだろう・・・。とも思いました。
 
まずは、ハワイの歴史について書かれている書籍を日本語・英語を問わず読みあさりました。実は、ハワイアンジュエリーについて研究している書籍は1冊以外ありませんでした。それは、ハワイが好きな人達はよく知っていると思いますが、ハワイアンジュエリーブランドの中でも一際目立っているフィリップリカードというブランドのフィリップリカードさんが書いている1冊のハワイアンジュエリーについての研究本です。

5.本の名前は”永遠なるその記憶”

 
ハワイアンジュエリーについて、たぶん一番しっかりとした書籍を出してくれているフィリップリカードさん。彼が書いた本を訳してみました。そこに記載されている事に私は自分と同じ様な疑問を持ち、本当のハワイアンジュエリーの歴史や起源を探す努力をした人がいた事がとても嬉しいと同時に、ただハワイアンジュエリーを販売しているだけではない人に尊敬の気持ちがわいてきました。この本を執筆するのに7年間もかけたと書いてあります。
 
そこに書いてある内容はこんな事が書いてあります。抜粋してみました。
 
以下“永遠なるその記憶”から抜粋
 

エングレーバーを使って複雑なエアルームジュエリーの模様を彫っていた時に、その模様を見てふと私が深く関わっているこの仕事の、はるか昔にさかのぼる起源について思いをはせてみた。
顧客からハワイアンジュエリーの歴史について聞かれることも多かったので、少しその歴史についての説明も商品と共に同封したほうが良いと考えてもいたからだ。
 
現地の宝飾業界内でよく知られているハワイアンジュエリーの歴史は、「ハワイ王朝の王女リリウオカイラニが、1887年ロンドンで行われたイギリスのヴィクトリア女王の生誕50年祭に出席した際に、ヴィクトリア女王自身から彫刻が施されたブレスレットを貰い受けた。そしてリリウオカイラニがハワイに戻り女王として君臨した間、そのブレスレットをよく身につけていたため、それがハワイアンジュエリーの起源となった」というものである。
 
私は様々な手段でその事実確認を試みたが、イギリスの歴史文献においてそれを確証できる記録は見つけられなかった。そこで私は色々な史実を探るのではなく、このハワイアンジュエリー史の間違いなく中心人物である、ハワイ王国最後の君主リリウオカイラニ、この人について徹底的に調べることにしたのである。
 
私が最初に見つけた1892年の彼女の写真では既にエナメル加工されたブレスレットを身につけていた。が、さかのぼること7年前の1885年、彼女がイギリスへ行く2年前の写真でも既にブレスレットを身につけていた。さらにもっと古い写真においても、似たようなジュエリーを既に身につけていたし、1862年彼女が20代の時の写真でも現存するバングルを身につけていたのである。
とにかくこれらの事実は、これまでハワイの宝飾業界内で通説とされてきた内容を覆すもので、本当の史実はもっと複雑なものだと確信した。
 
とにかく最後の君主リリウオカイラニとは、ハワイの歴史のどの側面においても深く関わった人物である。彼女の生涯を紡ぐことがハワイの歴史そしてエアルームジュエリー誕生の歴史を知ることだと思われる。

 
この様な理由で、私のハワイアンジュエリーの歴史の追及は確信を持ってここからスタートする事になったのです。本当の歴史はもっと別にあるはずだ。もしハワイアンジュエリーの定義が誰かの名前を彫りこんで黒いエナメルを入れてあるものがハワイアンジュエリーの定義だとすれば、ヴィクトリア女王に感銘してリリウオカラニ女王が作らせた。だから、ハワイアンジュエリーの起源は1887年からはじまったというので良いのかもしれません。
 
しかしながら、昨今のハワイアンジュエリーに黒いエナメルを入れている商品はほとんど見る事ができません。ハワイアンジュエリーの定義とは何かを良く聞かれる私は必ずこう答えています。
 
草や木や海や風や波。その他様々な生き物を表現した自然のモチーフが彫りこまれている。または造形してあるのがハワイアンジュエリーの定義だと思いますと・・・。
黒いエナメルを入れているのがハワイアンジュエリーの定義です。と答える人には私も今まで会った事がありません。
 
ネイティブハワイアンの歴史を探るとリリウオカラニ女王の功績は大きく、本当の意味でハワイの文化を救ってくれた人なのでは・・・。と調べれば調べるほど魅力的な精神を持っている女王様だったことは推測ができます。既にハワイアンジュエリー業界に浸透している起源を否定する事に意味はありませんが。本当の歴史を知りたい。そんな思いでこの文章を書いています。

6.いったいネイティブハワイアンたちはどこからやってきたのか?

ハワイの歴史とはいったいいつからはじまっているのか?実はこれは諸説あります。有史以前からポリネシアから移り住んだ。ペトログリフなどの古代絵の炭素測定では西暦500年頃だったのではないか・・・などなどです。
 
炭素測定で分かるのは、絵が描かれた年代であって、移り住んだ年代ではないので、少なくても西暦500年よりも前にはたどりついていた可能性があります。

ペトログリフの写真

 

ちなみに、私が4歳ぐらいのころにアメリカの生誕200周年の記念行事として行われた実験があります。当時の造船技術を使い当時の船を作り上げ、当時の操船技術で本当にハワイへポリネシアからたどり着く事ができるのかという実験です。

海の上のホクレア号という船

船の名前はホクレア号といいます。実際にたどり着く事ができたそうです。ただし、この実験はアポロ11号が月に着陸した6年も後に行われている事と、既にそこに島があるという事を知って向かっていくのと、そこに島があるのかどうかも分からずに向かっていくのでは全然環境が違います。

たぶんはじめてハワイにたどり着いた人達はとても過酷な試練を乗り越えてたどり着いたのではないかと想像できます。小さな小さな船で数人が食べ物や飲み水を分け合い、ゆずりあってなんとかたどり着いたハワイの島々です。そしてたどり着いた後も互いに助け合いながら、歴史を積み重ねていったのだと思います。
 
私が注目したのはファーストハワイアン達のルーツはタヒチなどを含むポリネシアの人達であった。という事です。そして少し視点をポリネシア文化史に目を向けるとそこには様々な紋様が散らばっていたのです。今でもポリネシアを含む環太平洋文化圏では様々な少数部族が存在しています。
 
そしてその部族毎に特徴がある紋様が伝えられています。そうです。マルケサス・サモア・タヒチなどで生まれているトライバル模様などの刺青の文化です。トライバル模様の中には波の模様など様々な自然に対する畏怖や感謝を現している模様が現在も受け継がれているのです。それはまさにハワイアンジュエリーに彫り込まれている模様につながっている事を確信するのでした。

7.なぜ、リリウオカラニ女王はイギリスに行く事になったのか?

リリウオカラニ女王の白黒写真

少し調べてみるとヴィクトリア女王の生誕50周年記念行事に呼ばれて行った。との記述が見受けられますが。ハワイから地球の反対側にあるイギリスです。本当にそれだけで行ったのだろうか?と疑問がわいてきました。
 
そしていつもの通り、本気で私は調べ始めました。調べれば調べるほど、リリウオカラニ女王がイギリスに行かなくてはいけなかった理由がはっきりとしてきたのです。
 
ヴィクトリア女王の夫であるアルバート王子が亡くなったのが1861年の事だそうです。実は同じ1861年にアメリカである戦争が勃発しました。南北戦争です。南北戦争の事を少し書いておきます。1860年に奴隷制の拡大に反対していた共和党のリンカーン大統領が当選した事が事の発端です。

もともとアメリカ南部では大規模農業を主体とした産業が経済の主軸を担っていました。そして、その大規模農園を運営していく為に、たくさんの奴隷を必要としていたのです。奴隷制の廃止は産業の停滞を招き、経済的に苦しくなる事を意味していた、南部の人達は奴隷制を廃止しようという北部の人達と戦うことになったのです。そして、この戦争は4年間も続きました。
 
実はこの事がその後のハワイの在り方に大きな影響を及ぼしていたのです。もともと農業が盛んなアメリカ南部で栽培されていたサトウキビなどが北部に入ってこなくなってしまったのです。戦争になってしまいましたからね。そこで北部の人達はハワイに目をつけたのです。ハワイへ渡り、サトウキビの大規模農場の開発がはじまりました。
 
たくさんのアメリカ資本が入り込み、ネイティブハワイアン達のライフスタイルはどんどん変わっていってしまったそうです。そして、様々なルールもアメリカ式に書きかえられていったとの事でした。
 
もちろん、その事をおかしいと感じたネイティブハワイアン達はアメリカと戦う事を意識し始め小さな小競り合いが大きな争いの流れに変わっていった時代でもありました。そのうねりの中でネイティブ達が守ろうとしていたのが、ハワイの文化であり、その象徴でもあったリリウオカラニ女王だったのです。
 
しかし、既にアメリカの軍事力や様々な情報がハワイ王室にも届いている中、リリウオカラニ女王は大切な家族や仲間達がアメリカと戦っても勝てない事も分かっていました。しかし、代々受け継がれてきた文化を失うわけにもいかない。
 
そして、リリウオカラニがとった決断はイギリスに救いの手を差し伸べてもらう事だったのです。生誕50周年を祝う事はもちろんですが、家族や人々を守る為にイギリスに仲裁をたのみに渡ったそうです。しかしながら、その目論見は実現する事ができませんでした。イギリスは小さなハワイの為にアメリカとハワイの仲裁に入る事はしてくれなかったそうです。(もっと複雑な理由があったかもしれませんが・・・)
 
ふとその時の女王の気持ちになってみました。
 
このまま帰ってもネイティブハワイアン達とアメリカとの戦いを止める事ができない・・・
戦ってしまったら、大切な人々を失ってしまう・・・
イギリスはどうして手を差し伸べてくれなかったのだろう・・・
どうすれば、皆を守る事ができるのか・・・
 
私なら、そんな考えで頭がいっぱいになっていたのではないかと思います。同時に、一番の既得権益があったのが、王室だったとしたら、自分の地位や権利を保全する為に何をしたらいいのだろう・・・。などと考えてしまっていたかもしれません。
 
しかしながら、リリウオカラニ女王が今の時代もネイティブハワイアン達に尊敬されている理由は、戦いを止める為に王位を降りる事を選んだのです。実はネイティブ達の蜂起は全てアメリカサイドには筒抜けでした。蜂起する日にはハワイ沖でアメリカ軍が今か今かと待機していたそうです。
 
もし、リリウオカラニが戦う事を決断していたら、そこでハワイ文明は途絶えてしまっていたかもしれません。インカ文明やメキシコ文明がスペインやポルトガルなどと戦う決断をして滅ぼされてしまったように。
 
このような背景がある中、私の中のリリウオカラニ女王はとてもヴィクトリア女王のジュエリーの真似をする心境ではなかったのではないか・・・と思いました。そして、先程転載したフィリップリカード氏の本に出会った事で、また別のハワイアンジュエリーの歴史がある事を確信したのです。

8.ポリネシア文化における宗教と刺青について

世界3大宗教と言われているのが、キリスト教・仏教・イスラム教と言われています。それぞれの宗教についてはあまり深く理解していないので、語弊があれば指摘をして下さい。
 
私の中ではこの3大宗教のそれぞれの頂点に立っている人の名前はよく知っていました。キリスト教=イエス・キリスト様、仏教=ブッタ様、イスラム教、ムハマンド様。です。これらの宗教と比べて日本を含む環太平洋文化圏の宗教は神道(しんとう)という文化圏です。
 
神道とは山や川や海などの自然や自然現象を敬いそれらに八百万(やおよろず)の神を見出す多神教です。つい先日“ノア”という映画を見ました。ノアの箱舟の映画です。旧約聖書に書かれているお話です。その映画の中では、神が光と影をつくり、大地をつくり、海をつくり、生き物を創造された。というお話です。神が自然を創り人間を創ったという考え方です。
 
 しかしながら、神道の考え方は順序が逆です。自然が私達をつくりあげた。という考え方なのです。ので、自然に感謝し敬えという感じです。雨の神様のおかげで今年も作物が育って、私たちは生きる事ができている。
 
海の神様のおかげで漁をする事ができ、海の幸をいただく事ができている。太陽の神様、風の神様、水の神様、月の神様などなど、自然のお蔭様という考え方です。

肩に入ったポリネシアンタトゥ

そして、刺青の文化が育っていった理由は、やはり家族や仲間への思い。自然に対する畏怖や尊敬の思いを切り離して考える事はできません。
 
様々なポリネシアの部族の中で刺青の文化が醸成された理由は、まずは他の部族との区別をつける為と言われています。大きな統治システムがない時代、それぞれの部族は敵と味方の判別を瞬時につける必要があったと考えられています。

また、成人や婚姻の証などの意味もあったそうです。そして、様々な神様の力を自分の体に宿す目的もあったのではとも言われています。
 
家族や仲間を大切に思う気持ち。
自然に感謝する気持ちを忘れてはならない。
 
この2つの事を昔の昔のもっと昔の人達は未来の子供達に伝えたかったのでは。文字がない文化では踊りや歌、そして様々な紋様としてこの2つの事を伝えようとしたのです。

9.本当のハワイアンジュエリーの歴史とは。

 
ポリネシアから渡ったファーストハワイアン達。とても困難な航海を乗り越えてハワイにたどり着いたはずです。なぜ、ハワイをポリネシアン達が目指す事ができたのか?という疑問には2つの説があるそうです。

タヒチ周辺の島々でくらしていた人達が空を見上げると、何もないはずの北の方から鳥が飛んでくる。何もない所から鳥が飛んでくるはずはない。向こうにも見知らぬ島が必ずあるはずだ。と勇気のある海の民が見果てぬ島を目指し漕ぎ出した。という説。
 
もうひとつは、ちょうど今、小笠原諸島に西ノ島という島が日本の領海に生まれています。まだどんどん大きくなっているそうです。海の中に島が生まれる時、多くの場合海底火山の噴火がともないます。その噴火のパワーは海底を攪拌し多くの堆積物を巻き上げます。

カヌーを漕ぐ人々を描いた絵

そしてその堆積物が海流にのり、白いミルキーウェイになって、漁をしていた船に見つけられ、新しい島の誕生に気づいた人達が北を目指したのではないかという説です。どちらもロマンがある話です。
 
ただ、どちらにしても、とても過酷な船旅だったはずです。そしてやっとたどり着いた数人の人達は、互いに支えあい、助け合い、ゆずり合い、分け与えあったはずです。そして、あの美しいハワイの島々にたどり着かせてくれた自然の神々に感謝を惜しまなかったはずです。

水平線が丸い海の白黒写真

今私達がこの島にたどり着き、繁栄しているのは、家族や仲間を大切にして自然のお陰で生きる事ができている。だから、自然への感謝する気持ち。家族や仲間を思う気持ちは絶対に忘れてはならない。その思いも未来の子供達へ伝えなくてはならない。
 
そんな思いから生まれたのが、ハワイアンジュエリーに刻まれている模様だと私達は考えています。

ここまで長々と書いてきましたが、もう一度心を現代に移してみると。73億人が100億人になってしまう人類です。未来はもっともっと、助け合い、ゆずりあわなくてはいけない。と思いませんか?奪い合うような世界にしてはいけないと思いませんか?窓を開けると気持ちが良い空気、海に飛び込める幸せを失ってはいけないし、私達が口にしているものは、自然が与えてくれたものだと思いませんか?自然に包まれている地球は今よりも大切に守っていかなくてはいけないと思いませんか?
 
私達はそんな思いがハワイアンジュエリーの紋様には込められていると思っています。

10.最後に、なぜこの模様をジュエリーにする必要があったのか。

 
私がなぜこのハワイアンジュエリーを作る仕事をしているのかの思いがここにあります。みなさんジュエリーの特性をご存知でしょうか。
一般的にジュエリーというと高価なイメージがあり、洗練されたファッションアイテムの1つとして考えられていますよね。確かにファッションとしてのジュエリーの在り方はとても興味深いものがあります。
 
でも、私はジュエリーの2つの機能に魅入られているのです。
 
私は大切な思いはいつまでも忘れずにいてもらいたい。と思っています。その思いとは人それぞれの物語があっていいと思います。世界中にたくさんのジュエリーを販売しているブランドがあるのに、私達のブランドを見つけて足を運んでくれた人達には、私はこういう話をするようにしています。
 
大切な思いや、一番良い時の思いが、いつも思い出せるものがそばにあると素敵だと思いませんか?と。すると今までこの話をさせていただいた人達はみんな素敵ですね。といってくれました。私も、大切な思いがいつも思い出せるものがそばにある事は幸せだと思っています。いつも傍にある為には、持ち歩きやすいという事が大切です。
 
いつも持ち歩いているものは何ですか?財布?携帯?かばん?いろいろあると思います。しかし、もうひとつの大切なものは、ずっと壊れず、何年も何十年も持ち歩ける必要がある。という事です。その為、十年経っても50年経っても、壊れず、変わらない素材で作らなくていけないのです。
 
 
いつも持ち歩き続けることができる。
100年経っても変わらない素材。
 
 
この2つの機能を有しているアイテムはジュエリー以上のものはありません。私は家族や仲間を大切にする思い。自然に感謝して守っていこうという思いは、私の大切な人達には持ち続けてもらいたい。と思っています。
 
そして、その思いは何十年経っても未来の子供達へ受け継いでいかなくてはいけないのです。という理由で、昔のもっと昔の人達が受け継いできたメッセージを未来に伝えて行く事がハワイアンジュエリーを作るということなのでした。
 
このような歴史や意味を振り返ってみると。決して夏だけの、海が好きな人達だけの、ハワイが好きな人達だけのジュエリーではなく。
 
家族や仲間を大切に思っている人達の。未来の世界の形を想像できる人達の。自然を大切にしていかなくてはいけないと思っている人達の為のジュエリーである。と私達は本当のハワイアンジュエリーの歴史とは、ヴィクトリア女王にあったほんの150年前の歴史ではなく。もっともっと昔からの歴史があるものであるというのが、私が調査した結果の結論です。これからは、少しずつでも未来の子供達の為にも、本当のハワイアンジュエリーの歴史を多くの人に伝えていこうと思っています。

創業者松尾琢磨の顔

 
Master Engraver
TAKUMA MATSUO
 
 
ハワイアンジュエリーの伝統的な美しさに魅せられ、ジュエリークリエイターとして活躍中にオアフ・マウイにてハワイアンジュエリーの修行を行う。
 
国内外を問わずトラディショナルエングレーバーとしてグローバルな活躍を見せる。

 COLUMN コラム一覧 

 
ハワイアンジュエリーの歴史